🧠アートde対話

一生を通じて完成させる対話の自由研究。

嫌われている人や物事を擁護したい本能?

子どもの頃から私の中にある性質として、ずっと共通していることがあります。

そしてそれは別にそれを志しているつもりでもなく、本能的にごく当たり前にやっているというか、振り返ってみるとそんなことばっかりだなぁ、と思うこと。

周囲からの嫌われ者の擁護

それはいわゆる「周囲からの嫌われ者の擁護」。それは単純な擁護というより、自分が実際に接して触れてみて、周囲から言われている評判のような要素を感じないな…みたいな噂と実際の違いを感じるから、これは言わねば!みたいな使命感に駆られるんですね。

人にも虫にも動物にも企業にも店にも、食べ物にも物にも、何に対しても私は、その姿勢でずっとやっています。

それはなぜだろう?と自分に問いかけるんですよね。

「偏見」が嫌いだから?偏見っていうか、そもそも話で聞いた事と実際が違ったら、違いますね、と伝えるごくシンプルな姿勢、だと私は思うのですが…

 

でも擁護ばかりでなく、逆に「糾弾」だってもちろんします。良い評判を聞いていて、蓋を開けたら全然話が違う?それが店やサービス、お金を払うものなら尚更?レビューもしっかり書きます。そして真摯に対応をしてくれたら、またその旨をレビューに必ず追記します。

 

ただ情報と体験の整合性を取りたいだけ?

 

最近は、昆虫食でやり玉にあがるコオロギに罵詈雑言を浴びせるな!と本気で憤慨している自分がいるし(昆虫食を推進している訳ではないけど、大反対もしない。なんか怒りの矛先やベクトルが違う気がして、物言わぬ昆虫だと思って人間の身勝手な愚かさをぶつけるサンドバッグになっている気がして、物申したくなるのです…)

後は多くから嫌われ者だと周囲から事前に悪評を聞かされる教授や先生だったり、スタッフだったり…と仲良くなって、全然そうじゃないじゃん…と言うか、なぜ彼らが「性格が悪い」と言う結論で片付けられてしまうかとか、そこら辺も感覚的に解りながら、それでも自分自身はちゃんとコミュニケーションも取れるし、何も害もないし、むしろ好いてもらって楽しく過ごせるから嫌う理由がない…みたいな。

それって結局、コミュニケーション能力問題?

でも結局それって、ちょっとしたコミュニケーションの問題なだけで、そこまで嫌う事か?って事が多いんですよね。何なんでしょう?この差別したり迫害したりするあの人間の本能っていうのは。そして囲い込んだりして…。

 

浅い理解、誤解のまま放置、嫌いのままクロージング…うーん、嫌いな対象を設定していた方が心理的に何かバランスが取れるのか?人それぞれの心理的事情やバランスはあるのだろうけど…

 

今日は、ぱぱっと雑記的に書きましたけど、今後もこのスタンスで変わらず行きます。私は周囲から「好き嫌いがはっきりしている」と言われますが、一応それなりに一通り考えた上でのそれなので、一面だけしか知らなければ、多面性のその一面以外の要素をまだ知らない自分に対して、もしかして嫌いじゃない事もあるだろうな、と言う余白は設けつつ、その時の意見を持っています。

 

とりあえず、自分がちゃんと考えた上でその印象を抱いているのか、まだ浅い段階でよくわかっていない段階の印象なのかとかも明確にして、自分の意見も感情もいつも明確に説明できるようにはしています。特に何かを「嫌悪」してしかもそれを周囲に表明するということは、その嫌悪対象の名誉にも関わってくることですからね、責任を感じます。

だからちゃんと理由を添える。★1レビューの時もしっかり経緯を書く。

 

そういう情報発信側もそうだけど、皆、同時に受信者でもあるから、「いい加減に物事や人の好き嫌いを言う人」の意見を、そのまま鵜呑みにする姿勢も大いに問題なので、そこは気を付けようね…とは思います。結局、私達一人ひとりが整う必要がある訳です。

 

今日はザザッと書きました💦以上~