🧠アートde対話

一生を通じて完成させる対話の自由研究。

「対話」の定義、本気で考えてみたことありますか?

意外と広義?「対話」の定義

普段から何気なく使う言葉の数々。言葉は生き物なので、時代と共にそのニュアンスだけでなく、下手したら意味合いも本来のものから真逆にひっくり返ってしまうことさえあります。だから、何気なく使っている言葉の定義の確認はもちろん、それをどこかの場面で使う時、その言葉や表現を使う相手と「共通の認識」でその言葉を受け止めているのか、確認する必要があるんです、本来ならね…

でもそんなことを一字一句で試みていたら、今度は会話が進みません。だから時々でいいんです。思い出したら…もしくは、会話にすれ違いを感じた時なんて、定義を再確認するよいキッカケですね。

 

下記の「対話」という言葉の定義集を覗いてみるだけで、辞書によって書いてることがここまで違うのか?と思う一方で、詳しく説明されていてもピンとこなかったりもします。そして別にそんな自分の反応は、まぎれもないその言葉が持つ事実です。そういう解釈をされているということで。

kotobank.jp

Twitter上でよく見かける「対話不成立」の場面

Twitterを私がアクティヴに使い始めたのは、2020年コロナ禍からです。そして3年間経った今、振り返ると…実にそこら中で日々論争が勃発していました。反コロナとか、反ワクチン、そして推進派、煽り煽られ、工作員と呼ばれるアカウントたちに、インフルエンサーたちに…。有益な情報を流しているインフルエンサーも多数いるものの、私が100点満点を差し上げられると思える人には、遭遇していないかな…という印象です。

結局、私は対話力を見ているので。

話が通じない→ブロック→遮断→フィルターバブル

何かの意見が対立した時に、双方の言い分を冷静に交換しているやり取りなど、ほとんど見かけたことがありません。どこもかしこも論破合戦、もしくはブロック…そしてその結果を仲間内に持ち帰り悪口ゴシップ大会…そんな稚拙な場面を無数に目撃しました。それらは今でも続いていますね。そして私も何度となく巻き込まれたことがあります。共通して思うことは、この「即ブロック」姿勢。これがSNS上の立ち回り方としては、有効でスマートなアクションだとされている傾向を感じますが、私はそれに異議を唱えるタイプです。

彼らは対話を一切試みていない

口のききかた次第で、相手の態度も全然変わるのは文章でも同じです。不躾に質問されたりすると、それを批判と捉えたり…しかし、Twitter上の多くの人達が大体常に臨戦態勢なんですよね。特にコロナやワクチンに対して相反する意見を持っている同士は。

お互いに異なる意見に関して、あなたはどうしてその意見を持つに至ったのか?という確認をしようとしない、というかそんなことに価値を見出さない人も多い様子。要するに対話を試みていないというか、そもそもの目的が対話ではないということが判ります。ただ自己主張したいだけ。相手を理解する、解り合おうとする姿勢はそもそもないということが判ります。

ですから反対意見は邪魔ものなんでしょうね。なのにそんな邪魔者に絡まれたらどうするか?対話能力がなければ、ブロックして遮断、要するに逃げるしかないのでしょう。そうしないと、面倒臭いことになると予想するんでしょうね。

フィルターバブルが続々と形成されていく

そうしてどんどんフィルターバブルは形成され、井の中の蛙で世界を俯瞰できない人達の塊がどんどんできていき、それらを率いるようなお山の大将的インフルエンサーたちが乱立しているわけですね。宗教みたいなもんです、私から見れば。

悪いものばかり目立つのが世の常なので

Twitter利用者ではない人で、Twitterは嫌いという人は多く遭遇します。すごく野蛮で乱暴な場だという印象を抱いている人達です。その人が実際に経験した結果そのような印象を抱いている場合と、単なるイメージだけの場合と分かれます。しかし、それらは前述のような、対話を目的としない人達の煽り煽られ場面を見たか、巻き込まれたか…それがトラウマみたいになってしまっている人、だから私にはTwitterは向いていない…なんて「謎のTwitter定義」が設定されていて、それに合わないと結論付けてしまっている人さえいます。

Twitter上で対話を楽しむ人達もたくさんいます

私はTwitter上で対話を純粋に有意義に楽しめている人達を多く知っていますし、対話をせずに不毛なコミュニケーションを繰り返した末、腐っているような人達に、対話に目覚めてもう少し同じ媒体でも有意義な使い方があるんだということを、知って欲しいと思っていますが、今の所は、私の対話姿勢に共感された方々が主に私の周囲には集まります。当然ですけどね、類は友を呼ぶですから。

意見が対立しない者同士でも、すれ違いは起きる

次はここですね。対話しようよ~と誘っても、皆がそれに乗る訳ではありません。いつまでも言い争って喧嘩していたい人達もいます。ですから、そういう人達を勧誘する枠は一応置いておくけども、私は「対話姿勢」を既に持っている人達の対話の精度をもっと底上げすることを目的にもしています。やっぱりそこには「言葉の定義の認識のずれ」とか同じ言葉を使っても、伝えようとしている側のニュアンスと、伝えられる側の解釈がズレることは日常です。大抵の人はその辺りはスルーして会話を円滑に進めることの方を優先しているように見えます。

しかし、今後もいろんなことで対話をしていきたい相手なのであれば、逐一さまざまな言葉や表現のニュアンスのすり合わせはしておくに越したことありません。後回しにして二度手間を生むメリットなんて、全く見当たらないからです。

 

かなり長文になってきたので

この辺りで今日は終わっておきましょうか💧

スッキリ結論に至るわけでなく to be continued な感じと

いろんな方向にふわ~っと広がる感じですみません。でも実はそんな感じの方が好きだったりします。私はいつでも、能動を促したいので。一方通行ベクトルは嫌いなんです。

では今日はこれで★