🧠クラスメイト対話

一生を通じて完成させる自由研究。

嫌われている人や物事を擁護したい本能?

子どもの頃から私の中にある性質として、ずっと共通していることがあります。

そしてそれは別にそれを志しているつもりでもなく、本能的にごく当たり前にやっているというか、振り返ってみるとそんなことばっかりだなぁ、と思うこと。

周囲からの嫌われ者の擁護

それはいわゆる「周囲からの嫌われ者の擁護」。それは単純な擁護というより、自分が実際に接して触れてみて、周囲から言われている評判のような要素を感じないな…みたいな噂と実際の違いを感じるから、これは言わねば!みたいな使命感に駆られるんですね。

人にも虫にも動物にも企業にも店にも、食べ物にも物にも、何に対しても私は、その姿勢でずっとやっています。

それはなぜだろう?と自分に問いかけるんですよね。

「偏見」が嫌いだから?偏見っていうか、そもそも話で聞いた事と実際が違ったら、違いますね、と伝えるごくシンプルな姿勢、だと私は思うのですが…

 

でも擁護ばかりでなく、逆に「糾弾」だってもちろんします。良い評判を聞いていて、蓋を開けたら全然話が違う?それが店やサービス、お金を払うものなら尚更?レビューもしっかり書きます。そして真摯に対応をしてくれたら、またその旨をレビューに必ず追記します。

 

ただ情報と体験の整合性を取りたいだけ?

 

最近は、昆虫食でやり玉にあがるコオロギに罵詈雑言を浴びせるな!と本気で憤慨している自分がいるし(昆虫食を推進している訳ではないけど、大反対もしない。なんか怒りの矛先やベクトルが違う気がして、物言わぬ昆虫だと思って人間の身勝手な愚かさをぶつけるサンドバッグになっている気がして、物申したくなるのです…)

後は多くから嫌われ者だと周囲から事前に悪評を聞かされる教授や先生だったり、スタッフだったり…と仲良くなって、全然そうじゃないじゃん…と言うか、なぜ彼らが「性格が悪い」と言う結論で片付けられてしまうかとか、そこら辺も感覚的に解りながら、それでも自分自身はちゃんとコミュニケーションも取れるし、何も害もないし、むしろ好いてもらって楽しく過ごせるから嫌う理由がない…みたいな。

それって結局、コミュニケーション能力問題?

でも結局それって、ちょっとしたコミュニケーションの問題なだけで、そこまで嫌う事か?って事が多いんですよね。何なんでしょう?この差別したり迫害したりするあの人間の本能っていうのは。そして囲い込んだりして…。

 

浅い理解、誤解のまま放置、嫌いのままクロージング…うーん、嫌いな対象を設定していた方が心理的に何かバランスが取れるのか?人それぞれの心理的事情やバランスはあるのだろうけど…

 

今日は、ぱぱっと雑記的に書きましたけど、今後もこのスタンスで変わらず行きます。私は周囲から「好き嫌いがはっきりしている」と言われますが、一応それなりに一通り考えた上でのそれなので、一面だけしか知らなければ、多面性のその一面以外の要素をまだ知らない自分に対して、もしかして嫌いじゃない事もあるだろうな、と言う余白は設けつつ、その時の意見を持っています。

 

とりあえず、自分がちゃんと考えた上でその印象を抱いているのか、まだ浅い段階でよくわかっていない段階の印象なのかとかも明確にして、自分の意見も感情もいつも明確に説明できるようにはしています。特に何かを「嫌悪」してしかもそれを周囲に表明するということは、その嫌悪対象の名誉にも関わってくることですからね、責任を感じます。

だからちゃんと理由を添える。★1レビューの時もしっかり経緯を書く。

 

そういう情報発信側もそうだけど、皆、同時に受信者でもあるから、「いい加減に物事や人の好き嫌いを言う人」の意見を、そのまま鵜呑みにする姿勢も大いに問題なので、そこは気を付けようね…とは思います。結局、私達一人ひとりが整う必要がある訳です。

 

今日はザザッと書きました💦以上~

嬉しい感想いっぱい✨対話型アート鑑賞を体験された方々の声

昨年下旬から🔰の体験用含む、対話型アート鑑賞のセッションを不定期ですがおもにオンラインで開催しています。

私とまったく事前の面識のない方々のご参加も少数ありますが、そのほとんどが事前に私をTwitterかInstagramのアカウント経由で、もしくはオフラインで既にご存知の方々がほとんどです。

知人友人レベルということに甘えていてはいけないと思っていて、私に対する事前情報がまったくない人からの、本当の率直な意見をまだまだ多数集めないと、嬉しい感想ばかりだと言ってぬか喜びはできないな…といつも思ってはいます。

 

でもやっぱり嬉しいんです♪下記スレッドにこれまでの参加者さんの声をまとめていて、だいぶ集まっています♪

中でも最近、顔出しNGだけど対話型アート鑑賞に関心があるという人の多いTwitterで、顔出し無しで声だけのやり取りでの対話を試みる実験をするために参加者を募った所、フォロー外から応募してきてくださった方がいらっしゃいました。

その方は、コロナ禍のTwitterの風潮にすっかり嫌気がさしてしまいアカウント削除したものの、今はアカウントは持たず、外部からTwitterにアクセスして興味のある物事を検索しながら、情報収集目的で使うという方でした。たまたま最近、対話型アート鑑賞に関心を抱かれたタイムリーなタイミングだったようで、ご縁に繋がりました。

その方からのセッション後のご感想が、本当に胸熱案件で、対話型アート鑑賞を始める動機がTwitterだったという私にとっては、本当に嬉しい内容でした。

テキストとしても下記にコピペしておきます。

先程は体験会の司会・進行お疲れさまでした。そして貴重な体験の場を設けてくださり、改めてお礼申し上げます。ありがとうございます。
 
体験会を通して何の抵抗もなくスルスルと他の参加者様の意見が自分の思考に溶け込んでいくのが心地よかったです。不思議な一体感がありました。自分の考えと対立する意見のはずなのに「そんな見方もあるのか」と素直に受け入れられるこの不思議、一体なんなのでしょうかね🤔題材がアートだからなのか?答えがないという前提があるからなのか?答えがないから自分の意見にも他人の意見にも執着しなくなるからなのか?執着がなくなることによる余裕が他者の意見を取り入れる呼び水となったのか?そんなことをもっと自分の中で深めたいと思ったので、改めて顔出し参加の体験会にも参加します☺
 
今回の体験会は自分が見てきたTwitterでのやりとりと真逆をいく世界観でした。自分がTwitterやり始めたのはコロナ禍の情報収集のためで、見事な反ワク反マスク(笑)になったわけですが(子供へのコロ枠反対のチラシを下校途中の子供に配ったり、渋谷区の子供の集団接種会場前でビラ配ったり、議員にメール送ったりいろいろやりましたね😅)、意見が対立しているアカウントのツイートを見ていて少しずつ考え方が変わってきたんです。全部とは言わないまでも一部同意できるところはあるなとか。それで自分の変化を自覚すると相互フォロワーさん達がずっと同じことばっかり発信しているのに違和感覚えてきて…。それもTwitterをやめた理由だったりします。自分は今のところSNSの世界に戻るつもりはありませんが、願わくば今回の対話型アート鑑賞の世界観がSNSの世界にも浸透していけばいいなと思います。
 
長文失礼しました。

 

三重県のなるせ自然共和国 さんも、これまで私が2020年のコロナ禍初期からTwitter上で繰り広げてきた数々の対話実績などをご覧になった上で、信頼を寄せてくださっており、彼女の自然、環境保全やこども達への教育、大人の私たちへの教育の観点に絡めた上で、私のこの活動を応援してくださっています。

オンライン、オフラインとも今後も頑張って行きたいと思います★

参加者さんの心、思考がどんどん柔軟に広がっていったことを知らせてもらえることが、本当に私のやりがいや喜びに繋がります!

 

今後ともどうぞご支援ください、よろしくお願いいたします!全力でお応えしていきたいです!

AIと共存し人らしさを大切に…素敵なブログを見つけました★

当ブログでの他ブログ紹介第一号になると思いますが、私の別のはてなブログ記事にいいねをくださったキッカケで覗いてみたブログが、とても素敵な内容だったので紹介させていただきます♪

nao15-0.hatenablog.com

昨今、AI技術の進化や私達の日常への進出がめまぐるしい中…着々と私たちの大半があまり深く考えずに、その濁流に流されている所に、こういった内容は一読しておきたいと思う訳です。

 

AIを活用してライティング作業の効率化をはかることを、完全にポジティヴに捉えている人達もとても多いですが、そこに私達全員が傾いてしまうような流れを危惧しているので、こういったブログ内容にはとても共感するのです。

 

私たち人間が、人間であること、人間らしさの定義まで書き換えてしまったら、価値観もすっかり書き換えられてしまうと思います。しかし私はそれを望みません。でも世の中はそうなって行くかもしれない…それは社会全体としてどうなるか次第。正直あまり楽観的ではない中…でも大切にしようね、忘れないでいようね…と最後まで訴え続けたい気持ちが私にはあります。

 

以下、紹介させていただいたnaoさんのブログで印象的だった部分を引用。

しかし、共存共栄を認めても、AI(人工知能)と24時間お付き合いしても心は暖かくはならないかもしれません。

でも、ブログの世界では、まだまだAI(人工知能)が及ばない素晴らしい感性が私たちには残されています。

AI(人工知能)のアルゴリズムでは計算しきれない、「 愛:や「友情」や「手のぬくもり」など、非合理的な感性がブログの世界では残っているわけです。

人間は、この非合理的な世界が意外に居心地がいいのかもしれません。

大切なことは、たとえ素朴であっても、日常生活で感性を刺激する場面との出会いを楽しみ、文字で切り取っておける心のみずみずしさではないかと思います。

手のぬくもり、ひとのぬくもりを文字で書いておくということだとおもいます。

感性の波長があえば、年齢、性別、知識、学歴、経歴、表現力などの差は二の次だと思います。

 

私に関しては、ライティングを「学んだ経験」は一切なく、小学生時代から手紙を書くのが好きで、文通するわ、壁新聞書くわ、インターネット時代が始まれば、メールは出すわ、チャットはするわ、メッセンジャーはするわ、SNSはするわ、ブログは書くわ(ブログという呼称ができる以前から)、書いて書いて書きまくってきているだけの、推敲作業などもよっぽどない、生粋の実践型で、「目次を付ける」とか「読者への読みやすさ」とかを配慮したことがない、自分の欲するままに垂れ流し型ですが…

 

これでも一応、文章を書く仕事をしていたりもします。そして仕事用に書く文章は、このようにはなりませんしね…(大したことないレベルですが💧)

 

このブログ…クラスメイト対話では「対話」の大切さを啓蒙していますが、その対話の元は、「伝えること」と「伝えられること」の交わり合いだと思うので…そういう意味でも、ブログってそのまんまだし、私からしたらそれは、ディジタル化した壁新聞みたいなもんでもあるし、手紙でもあるんですよね。

 

「伝える」「伝わる」「伝えられる」…AIが届かない細かい所、繊細な所、人としてしっかり担っていきましょう♪AIに人としての担当部門まで、奪われたくないですもん。

 

共存しながらもライバル…ライバル?どうだろう?とにかく人間はAIじゃないし、AIも人間じゃない。それぞれの良さを妥協せず、しっかり出し合いましょう♪

 

ネガティヴな印象にポジティヴ要素が混ざって中和される歓び

クラスメイト対話/思想は、もともとTwitterをキッカケに生まれた活動で、その一環として対話型アート鑑賞を採用させてもらっているのですが、Twitterというインターネット上で匿名で利用できるSNSの性質上、「対面」という形に抵抗がある方がまだまだいらっしゃいます。

「匿名」「SNS」というと何かと「誹謗中傷」や「暴言」などのネガティヴな印象が真っ先に浮かぶ人が多いかもしれません。しかし、私はいつもそのステレオタイプや偏見に抗ってきました。匿名で利用できるSNSのどこかで起きているさまざまな悪いこと、いやなことの数々や問題ありな人達の存在は、それはそれで事実ですが、それが全てではありません。私が常に訴えたいのはそこです。「全てではない、100%ではない」ということ。

Always Look on the Bright Side of Life (いつも人生の明るい側を見て)というフレーズがありますが、「いつも」とまでは言いませんが、人も物事も全てのものは多面的で、良いことも悪いこともあるので、悪い所ばかりにフォーカスせず、良い所もあることを忘れないようにしようね? というのが私の想いです。


www.youtube.com

Twitterは何かと悪いイメージを抱かれがち

Twitterは何かと悪いイメージを抱かれがちで、何かしら嫌な体験をしてウンザリしたという人達によってそれは語られますし、それもれっきとした真実として尊重しますが、そればかりではないんですね。誰かが何かを嫌っているその感情を、無理矢理こじ開けるようにして好きにさせようとするつもりなんて毛頭ないのですが、そのほとんどはやはり「偏見」とか部分的判断で結論付けられてしまっている印象が強いので、もったいないなと思うことが、世の中には多々あります。そういったものを、うまいこともう少しギスギストゲトゲせず、おだやかに中和できないかなぁ~というのが私の願いです。

対話型アート鑑賞はそういった偏見をほどくのに最適なのでは?

Twitterに対して偏見を抱いている人達が、Twitterベースで活動をしている私に対し、どこまで偏見なく関心を抱いてくれるか、そこも関門ですし…前述の通り、何かを嫌う人達のその感情を無理矢理ねじ伏せようという気持ちもありません。いかに自然な形で、自分の気持ちから自発的に、その凝り固まったわだかまりみたいな嫌悪感情を溶かせられるか…そこが私の狙いなので、どこにも何一つ、無理矢理要素はないのですが、やっぱり鍵となるのは「好奇心」であったり、「確かめてみよう」「試してみよう」という気持ちがあるかないかなんですよねぇ。

それらの気持ちがある時点で、もう偏見は半分取れかかっているようなものですし、元々偏見がないからそう思える人もいるし、偏見をなくしたいからそう思える人もいるし…偏見で雁字搦めになってしまった人は、そこまで到達しないんですよね。

食わず嫌いといいますか。

ゆっくり少数ではあるけど実績は生まれています

対話型鑑賞を通して、そして私が日々発信している内容から…そういった各種ネガティヴな印象を覆されたとか、ネガティヴな偏見を抱いていた思考を改めてくださった方とか、まだまだ少数ですけどいらっしゃいます。より良い世の中のためには、そういった偏見がなくならないとも、少なくとも薄れ、弱まり、なるべく少なくなっていけばいいはず…だと私は信じています。

欲張らないし、焦らないし、強要もしない。教え込まれるものでもない。

自分から「そうか」って腑に落ちる形で気が付けるような、自然な促しを…私自身もまだまだ人生の道途中の学びの身ですが、謙虚に伝えていけたらな~と思っています。

一人ひとりが柔軟で自立した存在で在られるように。

温故知新の対話をしています

 

対話という対話をすべて愛でています、クラスメイト対話のブレインです

こんばんは。

最近もっぱら夢中になって盛り上がっているのが、Twitterのお友達である静岡県の鍼灸院経営の今村先生と、江戸時代の書物に使用されている挿絵をテーマにした対話です。

こちらはその中の一例です。(リンク先を飛べばアニメーションで閲覧できます)

#アートな東洋医学シリーズ が始まったキッカケ

これは既にプロで現場で活躍中でありながら、学びを止めない今村先生が日々発信される彼の真面目な研究考察の内容に対し、鍼灸や東洋医学に関心があるので内容に興味がない訳ではないけれど、それよりも挿絵の方に食い付いてしまう私の欲求から始まりました。

Twitter #アートな東洋医学シリーズ 動画より

こんな風にぬりえアプリを使って、BGMを付けたりして楽しんでいる素人の私を、先生が快く受け容れてくださったことが事の発端です。

👇下記リンクをクリックすれば一覧が表示されます。

twitter.com

プロじゃないけど関心はある私と、もっと東洋医学の知識を広めたい先生

私と先生の間には何の利害関係もビジネス関係もなく、純粋にTwitter上の対話相手として、いいねしたりRTやコメントをしたりし合う間柄です。世の中の東洋医学に対する偏見や壁のようなもの、どちらかというと地味で華やかさのない業界にもっとPOPな風を吹き込みたい…そんな想いを日頃から抱いていた先生には、私のようなふざけたようなアプローチでも歓迎してもらえました。

異なるアングル同士でインスピレーションを与え合う

私は、江戸時代の書物の挿絵に色がぬりたーい、面白い、この人〇〇しているように見える~とか、好き勝手に言っているだけで、失礼かな?なんて遠慮もあるのですが、私が無意識に使っている色合いが、専門的知識を持つ先生的に「黄色は胃を表している」とか…そんな風にリンクづけられたり、物語に繋げてくれたりして、新たなものが化学反応的に生まれていき、先生ご自身も刺激や閃きになると言ってくださいます。

煮え切らない会議室みたいな状態から抜け出すには

温故知新、専門家と素人、異世代間、異文化間、異性別感…世の中のありとあらゆる対極にある物事同士が互いに遭遇する時、そこには対立や反発が生まれるという発想の方が多いかもしれません。でもそこに交わり合いや融合や調和やバランスが生まれるという発想も、忘れてはいけないと思います。実際私はそれを日々、実践しているからです。

世の中で誤解される人、虐げられる人、差別偏見をあびていじけている人達…そんな人達と無数に対話してきました。でも私は決して「私はボランティアであなた達を救うために活動をしています」みたいなタイプではなく、ただ単純に一人の人間として、自分自身として遭遇する機会をもらった相手と真っ直ぐに向き合っているだけです。

だからよく、みんな無視するのにあなたみたいな人は珍しい…とか言われます。でも私が珍しい、変わった奴止まりではダメなんです。もちろん人それぞれ、元々の性格もありますし、世の中の全員が100%私のようになれ!なんて思いませんし、私は素晴らしいだろ~!とアピールしたい訳でもありません。でも、確実にそこには、反発や争いになり得たものがそうならずに、調和や理解に転じているという実績を、私自身が何度も経験してきているから、こうして書くことができるんです。あ、私と今村先生は初めから何の反発も争いもないので、そういう極端な事例とは違いますけどね。

自分と異なるものへの理解、未知なものに対する姿勢

勉強してから来い、予習してから来い、詳しくないくせに語るな…そんな風潮世の中に溢れていますよね。いつまで経っても交わらない。

例えば企業の開発者は、消費者に自社の製品を購入してもらいたいから、消費者の生の意見、気持ち、忖度も何もないありのままの想いを聴きたいと思うじゃないですか。だからポイントや割引付けてアンケート募集したり、謝礼付き座談会を開催したり…でももうその時点で既に「損得勘定」が発生していて純粋な世間話レベルからは離れてしまっているんですよね。セグメント的に「関心がある人達」が集まってくる訳で。もちろんそれはそれでいいんですけど…

 

ここら辺の話をし出すと長くなってしまうので、この辺りでストップしておきますが💧

私もブログは何の下書きもせずに、思ったままぶわーっと綴って、はいポン!と投稿してしまいますが…伝わっているかしら。

結局こういう話をしていると、広告やマーケティングのジャンルの話になってくるのですが、お金を払ってアピールとかそんな次元以前の、純粋な人々の対話、コミュニケーションから生まれる、本来あるべきの自然な情報伝達の流れとか…紹介したいんですよね。

なにはともあれ、また書きたければいつでも続編を書きますが、関心がある方は上記リンクから覗いてみてくださいぜひぜひ★

 

Twitterは対話の宝庫

2023年からはTwitterの発信量を減らし、ブログにまとめた発信スタイルにしていこうかと思っていたのですが…やはりそうは運びませんでした。

 

私はTwitterでも140文字数に縛られず、10でも20でも必要であればスレッドを続けて長文を書いてしまうので、ブログと文字数的に変わらんじゃないか!と言ってしまえそうですが、違うんですよね。

 

このプラットフォームの違いによる、発信のし易さとか居心地とかって何でしょうか?はてなブログだって他のユーザーと繋がり、コメントし合うことはできるのに、これはやはり他ユーザーとの距離感でしょうか?

 

私はこのブログと紐づけてある @classmate_taiwa

twitter.com

というアカウントは、この対話活動専用に増設したアカウントで(もともと予備枠として2020年からアカウント作成だけしてあった)、発信内容も絞って、フォロー、フォロワー数ともまだまだ少ないのですが

メインアカウントである @Brainmemox の方では、毎日が対話の連続です。

自分自身との対話が圧倒的に多いですが(要するに長文独り言垂れ流し状態)

twitter.com

この「クラスメイト対話」や「クラスメイト思想」という名称の

「クラスメイト」という感覚に至らしめたのが、正にコロナ禍3年間(もう超過していますが)のTwitter上のフォロワーか否か関係なく、やり取りをするすべての人たちとの日々の対話の実績の積み重ねによる実感です。

 

ブログ更新をTweetとして同期することも、Tweetをこちらのブログに貼ることも両方できるのですが、TwitterのTweetは割とジャンジャン発信してもいい遠慮のなさがありますが(それでも私は毎日発信が溢れ捲って多過ぎる部類です💧)、ブログは1日に何十も投稿するのはさすがの私でも憚られるんですよね。これ不思議な感覚ですよねぇ、プラットフォームが違うだけで…Twitterのあの気軽さと、他の人達との距離の近さって何でしょう?これを感じているのは私だけ?

 

だから対話事例が、文字でも画像でも映像でも音声でもTwitter上にいっぱいあって、こちらのブログに転載したいのだけど、追い付かずになってしまう💧

 

と…ブログの更新が滞っているので少し言い訳めいたことを書きに来ました。

 

もし、はてなブログユーザーの方でTwitterもご利用の方がおり、ご関心を抱いていただけたら、是非Twitterの方でもお会いしましょう、お声がけください♪密接なやりとりには、上記紹介済みのアカウントの後者の@Brainmemoxがおすすめです。

@classmate_taiwaの方は、一応素の自分を隠しきれないながらも、かしこまり風ポリシーで運営しております。

以上、雑談でした♪

 

五感を意識する

私は昨年、対話型アート鑑賞のコーチング資格を取得する勉強を始めるまで、五感がそれぞれどのぐらいの割合で、脳に情報を送っているかなんて考えたこともありませんでした。

私にとって漠然と「5」という数字は、バランスよく配分されているイメージが強くて…例えば★マークとか五角形とか、陰陽五行の五行部分とか…

五感が脳に送る情報量の配分

ですから「五感」に関しても、漠然とバランスよく配分されているような印象でした。要するにざっくり20%ずつみたいな…いや、でも正直まともに考えようと思ったことがなかったです。だから、80%以上も視覚が占めていて、かろうじて聴覚が11%ですが視覚の割合には遠く及ばず、続いて嗅覚、触覚、味覚の微々たる割合にとても驚きました!

下記円グラフ画像は、私が資格取得時に使用した協会テキスト内容に基づき作成したものですが、Web上を検索しても同様の情報は出ていないのですよね💧そして英語圏情報を辿っていると、なんなら視覚90%というものもあったり、脳に送信される五感情報の割合の配分には諸説ある…ということも頭の隅に置いておこうと思います。とは言え、データはデータで、あくまでも目安なので個人差も絶対にあるんですよね。

脳に送る情報量

出典は下記書籍:

 

小学生からの質問

小学生向けの対話型アート鑑賞のセッションの際、この脳に送られる五感情報の割合を説明した時に1人からとても鋭い質問が上がりました。

「目の見えない人の場合の割合はどうなるの?」

鋭い質問です。これは目の不自由な人にとっては五感ではなく、四感になるということですし、同様に耳の不自由な人もいれば、嗅覚や味覚に障害がある人も世の中にはいらっしゃいます。私はこの質問に対しての正確な情報を持っていないですし、果たしてそのようなデータがどこを調べればあるのかも、現時点では見当が尽きません。でも、目の見えない人…と言って真っ先に偉大なミュージシャンであるスティービーワンダーが思い浮かびました。視覚がない分、他の感覚が研ぎ澄まされるんだろうなぁという漠然とした印象。だから残された、聴覚、嗅覚、触覚、味覚で再分類がされるのかな…と。

嗅覚障害で嗅覚はじめ五感をあらためて考え直す

これは私の話です。昨年8月にコロナ罹患し、特に重篤化した訳でもなく、インフルエンザの熱が上下反復するタイプという印象でしたが、私に嗅覚障害を残したんですよね。半年経とうとする今も嗅覚は、正常時が100%だとすると20%程度にしか回復していない気がするし、罹患後2ヵ月半経過時に、突如妙な嗅覚症状(厳密にはニオイではない)が発生し始めて、微妙にその種類が変異しながら今に至り、もうすぐ罹患後半年が経とうとしています。

特に苦しんでいる訳ではないのですが、やはりそれをキッカケに五感というものをやや分解して感じる意識が生まれて、特に嗅覚が味覚を補助していたことに気付いたりと、実は経過観察を楽しんできました、笑。もともと私は履歴書の特技欄に「嗅覚」と書くほど、嗅覚に執着があるので、なおさらです。でも…嗅覚が以前より乏しくなった所で、他の感覚が研ぎ澄まされた…とうことは特にないんですよね、笑。やはりポイントは「視覚」なんでしょうか?脳に送る情報量が80%以上も占めるものが失われてしまったら…他の感覚達で頑張らないといけないはず。でも嗅覚がなくなった所で…あまり他の感覚が頑張る必要は…ない?

でも弊害はありました💦傷んだ料理を嗅ぎ分けられない!嗅覚が正常な家族は異臭に気付けても私は気づけない。でも味覚がかろうじてそこをサポートしていて、酸味を感じることで腐敗まではいかずとも、発酵し始めている味を感じさせてくれて、料理の状態を判別できたというか。日々起こるいろんな実験的題材が、面白いんですけどね、私は個人的に♪

人それぞれの感じ方の違いについてさらに考えるキッカケに

五体満足で生まれてくると、生まれた時から当たり前のように携わった五感…そして私達がその処理速度を認識なんて到底できない瞬間技で、常時私達のあらゆる動作を司ってくれている五感の各神経と脳に改めて感謝し、そこからさらに個人差について想いを馳せ始めました。対話型鑑賞をキッカケに、人それぞれの「見方、見え方」の違い、see, look…を気にかけるようになりましたが、厳密に言ったら液晶画面の明度や彩度みたいな面でも個人差はあるのか?などと気になり始めました。

また嗅覚に関して、障害によってにおいに変な混ざり物が発生するようになったり、においを音に例えたらボリュームが弱になったままのような感覚を体験していることから、こういった差異が元々ある人もいるかもしれない…とか聴覚に関しては、若年層にまでしか聴こえないモスキートサウンドだったりとか…その他、味覚も触角も…。漠然と私たちが「同じものを同じように感じている」と思い込んでいることが、実は全然違うかもしれないという可能性に対し、謙虚に丁寧に向き合う感覚を持つようになりました。

この五感をテーマにした話題は、これからも何度も登場するであろう私の大きな関心事なので、今日はこのあたりで終えておこうと思います♪

ではまた~