🧠クラスメイト対話

一生を通じて完成させる自由研究。

これ、それ、あれ使い過ぎていませんか?

「言語化力」の乏しさを克服しましょう

下記は対話型アート鑑賞のセッションを通して期待できる、はぐくまれるチカラの一覧です。無数に広がる可能性の中でも、やはり「言葉に変換する能力」には注目しています。これはTwitter上にいると、よく「文章力がない」「語彙力がない」とご自身を卑下される方々がたくさんいらっしゃるのですが、今日は文字上ではなく口頭のコミュニケーションについて話したいと思います。

対話型アート鑑賞ではぐくまれるチカラ

👇音声付きはこちらのURLをチェック✔

https://www.instagram.com/p/CnBbzFOpdH-/

こういうふうに、ああいうふうに、そういうふうに…

もうですね…日々、自分の娘(小5)との会話の中で、この問題に関して非常に危惧しているんですよね。今まではあまり意識しなかったけれど、最近ちょっと見過ごせないなと思えてきまして…口うるさいと言われるのは重々承知で「この、とか、これ、と言われてもわからないから、もっと言葉で説明しようと努力してみて」と言います。

しかしその指摘の仕方も、慎重にしないとすぐ逆切れされてしまいますからね?そこも注意ポイントです。

コミュニケーションが円滑に進まないこと、速く伝えよう、伝えられよう、もう急いで急いで気持ちばかり焦って、お互いの間の理解が追い付かなくて、イライラが生まれるだけで、本当に不毛だなぁと思うわけです。

 

これって大人同士でもやっているんですよね💧理解できなくても聞き返すのが面倒臭くて、適当に返事を返すとか、そんなことしている人たちそこら中にゴロゴロいるじゃないですか?そういうことする人たちは、相手に気付かれていないと思ってやっていると思いますが、もちろん気付かない人たちもいるでしょうが、私は気づきます。

同じ物を見ていなくても、音声情報だけでその映像が浮かぶような伝え方

私たちは五感を当り前のように使っています。見えるもの、聴こえるもの、におうもの、触れる感触、味わい…全部、神経細胞と脳伝達の超高速伝達の連続が円滑に回ってこその賜物ですけど、そんなこといちいち意識して生きていません、私たちは。別に普段はそれでもいいんですけど、やっぱり適度に思い出す機会は必要だと思うんですね。

私たちの🧠脳に伝達される情報の83%は視覚からと言われますが、視覚情報に依存し過ぎとも思うんですよ。

私の娘なんて、自分の開いているタブレット画面を私に見せながら「こういうさ~、あのTwitterでもそうだけど、ぴってなって、ここがさー」とかもう、こういうとかああいうとか、それとかこれとか、そんな言葉しか出てこないんですよ💧

物事の描写や形容が全然できていない。私に見せて来る画面も角度で全然画面内容が見えないもんですから、私が容赦なく「わかりません、みえません」って言うんですね。

皆さんはこれ、それ、あれ、どれ…だらけの対話、どう思いますか?

音声メディアも流行っているこの機会に、視覚情報を省いた訓練を

私が提供している、対話型アート鑑賞では「視覚」をフル活用して絵画について対話するわけですが、結局その時も前述の私の娘の現象と同様に、そこの、ここの、あっちのとか、右とか左とか上とか下とか言う簡単な言葉さえ出てこないぐらい、これ、それ、あれ…もう大活躍です💦どれー?ですよ。笑

昭和時代の亭主関白の男性が、奥さんに対し「おい!あれ!」みたいな短文でコミュニケーションしようとする典型例は、よくネタにされていましたが、現代の若年層も似たようなもんなんです。言語化力が乏し過ぎる。その代わりにスタンプとか感嘆詞だけで済ませるみたいな状態。

もっと伝えることを意識しよう

自分が言いたいことだけ言って、相手に伝わっていると思い込んで、いざ相手は何も理解していなかったらキレるみたいな、そんな悪循環をやめましょうね。お互いに。

伝えられる側にも責任はあります。伝わっていないのに伝わったフリをしないことです。ちゃんと聞き返す、確認する…そういう習慣、とても大事です。絶対に無駄にはなりません。

クラスメイト対話では、今後も伝えること、伝えられること、姿勢…重点的に啓蒙していきます。

「対話」の定義、本気で考えてみたことありますか?

意外と広義?「対話」の定義

普段から何気なく使う言葉の数々。言葉は生き物なので、時代と共にそのニュアンスだけでなく、下手したら意味合いも本来のものから真逆にひっくり返ってしまうことさえあります。だから、何気なく使っている言葉の定義の確認はもちろん、それをどこかの場面で使う時、その言葉や表現を使う相手と「共通の認識」でその言葉を受け止めているのか、確認する必要があるんです、本来ならね…

でもそんなことを一字一句で試みていたら、今度は会話が進みません。だから時々でいいんです。思い出したら…もしくは、会話にすれ違いを感じた時なんて、定義を再確認するよいキッカケですね。

 

下記の「対話」という言葉の定義集を覗いてみるだけで、辞書によって書いてることがここまで違うのか?と思う一方で、詳しく説明されていてもピンとこなかったりもします。そして別にそんな自分の反応は、まぎれもないその言葉が持つ事実です。そういう解釈をされているということで。

kotobank.jp

Twitter上でよく見かける「対話不成立」の場面

Twitterを私がアクティヴに使い始めたのは、2020年コロナ禍からです。そして3年間経った今、振り返ると…実にそこら中で日々論争が勃発していました。反コロナとか、反ワクチン、そして推進派、煽り煽られ、工作員と呼ばれるアカウントたちに、インフルエンサーたちに…。有益な情報を流しているインフルエンサーも多数いるものの、私が100点満点を差し上げられると思える人には、遭遇していないかな…という印象です。

結局、私は対話力を見ているので。

話が通じない→ブロック→遮断→フィルターバブル

何かの意見が対立した時に、双方の言い分を冷静に交換しているやり取りなど、ほとんど見かけたことがありません。どこもかしこも論破合戦、もしくはブロック…そしてその結果を仲間内に持ち帰り悪口ゴシップ大会…そんな稚拙な場面を無数に目撃しました。それらは今でも続いていますね。そして私も何度となく巻き込まれたことがあります。共通して思うことは、この「即ブロック」姿勢。これがSNS上の立ち回り方としては、有効でスマートなアクションだとされている傾向を感じますが、私はそれに異議を唱えるタイプです。

彼らは対話を一切試みていない

口のききかた次第で、相手の態度も全然変わるのは文章でも同じです。不躾に質問されたりすると、それを批判と捉えたり…しかし、Twitter上の多くの人達が大体常に臨戦態勢なんですよね。特にコロナやワクチンに対して相反する意見を持っている同士は。

お互いに異なる意見に関して、あなたはどうしてその意見を持つに至ったのか?という確認をしようとしない、というかそんなことに価値を見出さない人も多い様子。要するに対話を試みていないというか、そもそもの目的が対話ではないということが判ります。ただ自己主張したいだけ。相手を理解する、解り合おうとする姿勢はそもそもないということが判ります。

ですから反対意見は邪魔ものなんでしょうね。なのにそんな邪魔者に絡まれたらどうするか?対話能力がなければ、ブロックして遮断、要するに逃げるしかないのでしょう。そうしないと、面倒臭いことになると予想するんでしょうね。

フィルターバブルが続々と形成されていく

そうしてどんどんフィルターバブルは形成され、井の中の蛙で世界を俯瞰できない人達の塊がどんどんできていき、それらを率いるようなお山の大将的インフルエンサーたちが乱立しているわけですね。宗教みたいなもんです、私から見れば。

悪いものばかり目立つのが世の常なので

Twitter利用者ではない人で、Twitterは嫌いという人は多く遭遇します。すごく野蛮で乱暴な場だという印象を抱いている人達です。その人が実際に経験した結果そのような印象を抱いている場合と、単なるイメージだけの場合と分かれます。しかし、それらは前述のような、対話を目的としない人達の煽り煽られ場面を見たか、巻き込まれたか…それがトラウマみたいになってしまっている人、だから私にはTwitterは向いていない…なんて「謎のTwitter定義」が設定されていて、それに合わないと結論付けてしまっている人さえいます。

Twitter上で対話を楽しむ人達もたくさんいます

私はTwitter上で対話を純粋に有意義に楽しめている人達を多く知っていますし、対話をせずに不毛なコミュニケーションを繰り返した末、腐っているような人達に、対話に目覚めてもう少し同じ媒体でも有意義な使い方があるんだということを、知って欲しいと思っていますが、今の所は、私の対話姿勢に共感された方々が主に私の周囲には集まります。当然ですけどね、類は友を呼ぶですから。

意見が対立しない者同士でも、すれ違いは起きる

次はここですね。対話しようよ~と誘っても、皆がそれに乗る訳ではありません。いつまでも言い争って喧嘩していたい人達もいます。ですから、そういう人達を勧誘する枠は一応置いておくけども、私は「対話姿勢」を既に持っている人達の対話の精度をもっと底上げすることを目的にもしています。やっぱりそこには「言葉の定義の認識のずれ」とか同じ言葉を使っても、伝えようとしている側のニュアンスと、伝えられる側の解釈がズレることは日常です。大抵の人はその辺りはスルーして会話を円滑に進めることの方を優先しているように見えます。

しかし、今後もいろんなことで対話をしていきたい相手なのであれば、逐一さまざまな言葉や表現のニュアンスのすり合わせはしておくに越したことありません。後回しにして二度手間を生むメリットなんて、全く見当たらないからです。

 

かなり長文になってきたので

この辺りで今日は終わっておきましょうか💧

スッキリ結論に至るわけでなく to be continued な感じと

いろんな方向にふわ~っと広がる感じですみません。でも実はそんな感じの方が好きだったりします。私はいつでも、能動を促したいので。一方通行ベクトルは嫌いなんです。

では今日はこれで★

AIを敵視しない…結局は人間次第?

ユヴァルノアハラリ氏とオードリータン氏の2020年夏の対談

Newsweek日本版の2020年7月の記事を、ユヴァル氏botのTweetにより知って、読み始めたらやっぱり面白くて…

www.newsweekjapan.jp

以下は上記記事の期間限定の音声版です。

私は長文テキストを読むことが苦手なので、先に初見と同時に音読を録音してそれを後で聴く習慣があります。自分自身のためだけでなく、他の人のための音声支援付きの学びの材料になったら一石二鳥で本望…ぐらいの気持ちです。

Twitterスペースは永久保存ではないので、現時点では当初30日間保管期間と言われていたのが90日間になっているようですが、イーロンマスク氏就任後、いろいろと改変が成されているので、保証はありません~。

よろしかったら、私のチャチャ入れ付きの読み上げスペースもお試しください♪

ユヴァルノアハラリ氏もオードリータン氏も素晴らしいお考えの持ち主だなぁと感じました。読みながら共感ばっかりだったので、ある意味安心する所もありながら…色々考えるんですよね。AIを一緒くたに脅威として捉えるのではなく、positive sideを見ることを、この記事を読んでいると思い出させられます。

結局、被害妄想を抱くのも、前向きに希望を抱くのも、使い手の人間側次第なんだなぁと思うんですが…ここなんですよねぇ。統一なんてできないと思うんですよね。一人ひとりが創り上げていく風潮、世界、社会、一般、常識。

陰謀論的視点で雁字搦めになっていたら、もう彼らの名前だけで偏見の脊髄反射が起きるので、聴く耳さえ持たない人も多いでしょう。

 

結局、何でもかんでも支配者層のせいにする他責感情で、自分たちを被害者設定にした前提で話を進めていたら、明るい未来なんて生まれる訳がないと思うんですよね。それで自分達が望んでいるかのような思考回路を持ちながら、その通りの現実が目の前に起きた時にほれみたことか…とドヤ顔をする。わかっていた、知っていた…的にね。

 

私はそれは違うと思います。

全部細かく文字起こしはしませんが、2020年7月の古い記事ですが、私にとっては全く何も古くなかったです。コロナ禍でディジタル化やAIについて考えさせられた上で、今これを読んだのは、2020年7月当時に聴いた場合を想定しても理解度に関しては今の方が高いと思います。

 

お暇だったら、是非、記事本文、もしくは私による音声データチェックしてみてください★今後の為になると思います。

私の「対話」に対する想い

私の目的は「アート」じゃなくて「対話」

私が対話型アート鑑賞の活動をする目的はアート鑑賞ではなく「対話」です。

ですから「対話の材料」は何でもいいのです。

自分の身の回りのどんなことでも…外出中に遭遇するあれこれや、今観ているTV…何でももキッカケにさにさえなればよい。

因みにご存知の方もいらっしゃると思いますが、私のTwitterアカウントはbyに続けて書いてある通り、もとは🧠Brainmemox(キッカケ&ヒント)というアカウントです。その名前にもあるように「キッカケ&ヒント」が私の在りたい形です。

twitter.com

対話姿勢には長年の自負があります

子どもの頃から対話好きで、いろんな人(不審者、犯罪者含む…ここら辺の話はまた別でします)…とにかく「話せばわかる」をモットーの1つとして生きてきたところがあり、対話姿勢には自負があります。

…なんて、敢えて書いていますけど、誰でもそうだと思いますが、自分にとっては当たり前のことなんてわざわざかしこまって話そうと思いませんよね?私だってこんな「対話姿勢」が云々…なんて、対話型鑑賞のコーチ活動をしなければ、こんな風に語らなかったですよ?

ただ、ずっと生きてきている中で「なんで周囲は(対話を)せんのだろう?、向き合わんのだろう?」という疑問は常に在り続けたし、今回こういう活動を本格的にしていこうと決めたから、わざわざ「対話」なんて言葉として切り取ってアピールしているだけで、自分の人生にとってはごく当たり前のことなんです。

「対話」への想いがどれだけこの活動のキッカケになっているか

下記はzoomでセッションをする際、初めての方にちょっとした自己紹介をする時に使う資料です。

要するにほとんどは「コロナ禍の社会+Twitter内で観てきた世界に対する想い」が動機になっています。

2022年初夏にコーチング資格を取得したわけですが、正直、私の「対話促進活動」というのは、日々TwitterやInstagramをメインにそれ以前からずっと続いていて、アート鑑賞という形以外でも、常にやっているわけですね。ですから、対話型アート鑑賞を体験くださった方々とも引き続き、SNS上で対話がそれぞれ続くことは珍しくありません。

 

ですから、対話型アート鑑賞の体験をされた方々からも、その後ご感想が度々届く中で、私のセッションを受けたキッカケで「日常の物の見方が変わった」と言われるのが本当に嬉しいんですね。例えば、気持ち悪いと思っていた虫(昆虫)への接し方、気持ちが変わった…とか、日々ストーリーズ(Instagram)やTwitterの文面からもコミュニケーションを学んでいる…とかそれはアートは関係ないんです。

そして私にメッセージをくださる文章など、そういったありとあらゆる自己表現、そして他者の発信の中の表現、伝え方…そういうものに対する意識が、かなり変わるようです。これ、1人や2人じゃなくて、複数からそういうお声をいただけるので、本当に嬉しいんです。私自身、現在はライターの仕事もしているのですが、そういったお声をくださる人達からのメッセージの文面も、セッションのビフォーアフターで変化があるのが判るんですよ。文章添削をする役割も何もないですが、そこも私には伝わるので、それをまた相手に伝えるんですね。

そしてそれを気付いてもらえたと相手は喜び、私も喜び、そして相手も実感が湧き、ますます前向きに…そしてもっと他者を理解しようとするし、自分も理解されようと、丁寧に質を向上しようという想いに自然になれる。

本当に素晴らしい好循環過ぎて、嬉しくなっちゃうんですよね。

改めて私の対話型アート鑑賞活動に対する姿勢

対話型アート鑑賞ブームに火が着いて来ているらしい昨今、アートを安易に使うなとか面白い楽しいだけで終わらせるな、ちゃんと原作をリスペクトしろ!的な真面目な声も沢山上がっているらしく、私もそこはちゃんと尊重しているつもりです。

私自身、英国大学でアートを学んできましたが、私の場合は実践の方で、学問としてのアート方面ではないので、正直私自身もアート作品の薀蓄を語るには勉強が必要な側です。

しかし、私の目的はアートの啓蒙とか推奨ではなく、まず「対話」なんですね。

まず対話。

認め合う、解り合うことの大切さ、その具体的事例。一般的に、そんなの無駄無駄、スルースルー…と避けて通られるようなことを、敢えてというか、自然にやってきた私だからこそ伝えられる、そういう「無駄」扱いされるあれこれの大切さ、とか、Twitter上での実例など、今後もバンバン出させていただきたいと思っています。対話のニュアンスは、私にとってはコミュニケーションです。対話を英語に訳すとdialogueなんですけどね。

因みに現在ライターをしていると書きましたが、私はもともと英語講師でもあるので、私の提供する対話型鑑賞にはさりげなく英語学習要素も盛り込んではいます。

dictionary.cambridge.org

とにかくアートよりも、まず「対話」。

でも利害関係や軋轢のないフラットでフェアな対話ができる材料として、もっとも適しているアートを、ありがたく使わせていただきますよ…というスタンスです。

 

その辺りのポリシーを、一度明確にしておきたいと思って、この記事を書きました。

 

 

AIと共存していく社会

私は度々、社会の「過度な」ディジタル化やAI化を危惧する旨に言及しますが、これは決して私がディジタル化社会やAIを一概に批判している訳ではありません。

要はバランスなんです。単純に。偏らないで欲しいだけ。

「じゃあベストバランスってどのぐらいよ?」って、そんな定義もできようもありません。ざっくり何かのパーセンテージを出す程度でしょうか。

人間に近づきたいAIとどんどんAI化していく人間

皮肉なことに、AIはその瞬間的な情報処理能力などいかにもコンピューター的な意味合いでは、計算能力など…もうとっくに人類の能力など遥かに上回っています。ただAI側の不完全さっていうのは、やはり人間ではないから(当たり前ですが)生身の人間らしさとか感情がない、柔軟性がない…ムラがないっていう所なんですよね。そういう人間独特の曖昧さやファジーさまでAIが身につけてしまったら、そこら辺の数字に翻弄された指示待ち人間状態の、思考停止になってしまっているAI未満の人間もどきたちは、それらに完全に淘汰されてしまうでしょう。

人間とAIがごちゃ混ぜの社会

「人類とAIの共存」みたいな言葉だけ聞くと、それこそSF映画の空中をビュンビュン空飛ぶ車が走行しているような、近未来を描いた景色を想像する人もまだいるかもしれませんが(映画ブレードランナー的イメージ)、現実社会の光景はせいぜいまだARで巨大看板の飛び出す映像にびっくりさせられる程度でしょうかね。

 

でも実際インターネット上では、既にそれは起きているんですよね、とっくに。

オマエはAIなのか人間なのか証明しろ!

誰でも一度は必ず遭遇した経験はあるでしょう。インターネット上はAIだらけです。でもそれは人間が仕掛けているんですからね、皮肉ですけど💧広告目的のデータ収集から何から…キリがありませんし、botなんてそこら中で、少し知識がある人なら素人でもTwitterでもbotアカウントを運用したりもできるし、気付かない人は全然気付かないままですし。

そしてさまざまな私利私欲のために、大量の数字を操作するためにbotを使ってあれこれコマンドを埋め込むというか、とにかくbotはそこら中に出入りしています。だから、下記動画のようなチェック機能がある訳ですよね。「私はロボットではありません」証明?


www.youtube.com


www.youtube.com

当然、ふつうの人間なら解けるようなパズルを与えられる訳ですが、それが現時点ではAIは解けないと…。でも時間の問題ですよね?人間は自分でAIを作っておいて、何と何を戦わせているんだ?って思いますが、笑。

最近、話題になっているArkoseチャレンジ

これ、今に始まったものではないようですが、まだちゃんと解説しているブログなどは見つかりませんでした。恐らくここから増えてくるのではないでしょうか?私自身は遭遇したことないですが、日本語でも英語でもArkoseチャレンジ、Arkose challengeと書かれているそれは、文脈から察するに、上記と同じような自分がAIでもbotでもないことを証明するための、軽いテストを受けろっていうことらしいです。

Twitterでは一定時間中に大量のいいねをしたりとか、立て続けに大量のアカウントをフォローしたりとか、いかにもスパムbotがやりそうなアクションを取ると、これまた自動でAIに「オマエAIだろ?判定」されて疑惑をかけられ、アカウントをロックされたりするみたいなんですよね。

ほんと…人間って何をやっているんでしょう?っていつも思います。でも今後、こういうプロセスにいちいち付き合わされていくんだと思います。

2030,2040,2050年に向けて…

これからますますどうなっていきますことやら。AIによって台頭される仕事のポジションは無数にあって、それをAIに仕事を奪われると捉えるのか、AIのお陰で楽になれる、時間が生まれると捉えるのか…AIを脅威と感じるか、共存していく存在と捉えるか…本当に人それぞれです。ただ1つ確実に言えることは、賛成しようと反対しようと、今後もAIベースの物事は大量に増えていきます。そしてAIにオマエはAIか人間か?なんて職質みたいに止められて、謎解きに付き合わされて、時には何かのバグとかエラーで、正しく答えているのにNG扱いされたり…いろんな面倒臭いことも増えていくと思います。どんなことばかり当たり前の世の中になってきた時、ふと我に返った時に…いろんな感覚…失っていないように、したいですね。

指針にできるものが、気が付いたら何もなくなっていた…みたいな。思考能力も奪われていた…指示待ちだけで、YES NOで従って生きてきていた…あれれ?ってならないように…

 

共に、対話活動を続けて、人間らしさを維持、向上しましょうね。

クラスメイトのみなさん✨

整理整頓、収納、片付け商売に繋げないといけない人たち

みんな違って、みんないい

私は、世の中は五感で感じられるいろんな物事の、いろんな種類があるから、いろんな色、形、大きさ、感触、におい、音…みんな違ってみんないいと思っている。

常に反対言葉を並べて考える思考習慣が、子どもの頃からある。

反対言葉の代表格と言えば「陰陽」で、暗さと明るさの両方の状態を知っているからこそ、それぞれの価値や役割が生まれるし、好きだろうと嫌いだろうと…高周波⇔低周波、熱い⇔冷たい、濃い⇔薄い、高い⇔低い、重い⇔軽い、賑やか⇔静か、厚い⇔薄い…キリがないですが、デザインの好み、味わいの好み、音の好み、雰囲気の好み…そしてその好みも一定でなく、同じ人の中でも変動するし、気分も変わる。

とにかく世の中はいろいろあってこそで、私たちは基本的にそれらの多くを自由に選べる環境にいる。

全国の主婦層の心を動かす朝の情報番組

先日、とある朝の情報番組を観ていた。主婦層が多く視聴する人気番組だ。よくある人気の、出版とか講演をしているような整理収納アドバイザーがスタジオにゲストに来て、いろいろと暮らしのアドヴァイスをしたり、ダメだしや成功事例の再現ドラマがあったりする企画だ。

そのアドバイザーは、要はミニマリストのようで生活動線上に一切無駄なものの存在を許さず、それらを「家の中のよどみ」と呼んでいた。例えば、スマートフォンの充電中にカウンターからコードが少したるんではみ出ている状態でさえ。それは「よどみ」としてNG!認定されるほどの徹底ぶりだった。その番組放送中は、Twitter上で視聴者が続々と感想をTweetするわけだが、賛否両論の大反響だった。

そのいかにも貶めるようなネガティヴな響きをまとった「よどみ」という表現に、大抵の人は衝撃を受けるのだろう。素直に感化されて、「ショックだけど参考になった、とか「そんなこと言ったら我が家はよどみだらけだ…💧」とか賛否両論。

 

👇ここからそれらを読めます。(私のTweetも何個か出てくるはず、笑)

twitter.com

「人それぞれでいいんですよ?」とは決して言わない

整理収納、お片付け系は同じテーマなのに、美人収納だとかなんちゃら整理術だの、いろんな名前を付けては、手を変え品を変え、新しいマスター的存在の人が現れ、メディアに取り上げられ、本を売ったりセミナーをしたり、グッズを販売したり、ブームを巻き起こす。資格ビジネスもある。

私は整理収納の概念を一切否定する気はないし、素晴らしいことだと思う。でもそれが全てではないとも思っている。それなのに、その番組では名前も聞いたことのない脳科学の専門家と称する男性が映像に出てきて、(名前を知っていればいいというわけでもないが)、「家の中のよどみが脳にストレスを与えている可能性がある」とかなんとか、「可能性がある」と濁してはいたけれど、煽り表現があった。とにかく理想は、ゴールはすっきりと片付いた状態。スタジオでも芸能人ゲストたちが、罪悪感や自己嫌悪で溜息をついている光景が…

そしてその整理収納アドバイザーは「少しずつでいいんですよ」と優しい言葉をかける。でもあくまでもベクトルは同じで、一貫して「正解=片付いた状態」である。

私がそれだけが正解でないという価値観を持っているから、番組に対する印象が違った

世の中には片付けられない人たちっていっぱいいて、私もその一人です。私の場合はmix型で、すごく片付いている時期、こだわる時期、崩れる時期、両方知っているタイプです。片付かないことへの罪悪感もあれば、許せてしまう時もあります。そして、過去に大学勤務していたことがあり、整理整頓とは程遠い状態の賢い先生たちの研究室とか、よく見ていました。だから、下記のような記事をスッと納得できる訳です。他にも私の友人の息子さんとか、部屋が足の踏み場もない汚部屋だけど、勉強しなくても成績優秀で、京大一発合格とか…そんな事例は、世の中にもたくさん溢れています。因みにこういう事例は、学力の高さに価値を覚える価値観に当てはめた場合ですが、細かいことを言えば、その価値観さえ別のものに置き換えることだってできるんですよね。大抵、整理収納の状態をネタにいろいろなことを否定しようとする理屈では、「学力や集中力の低下の懸念」みたいなことで煽ってきますから。

要は気にするかしないかの性格の問題もあると思いますが、別にそれでも大丈夫なことに対して、わざわざ不安を煽られて罪悪感を抱かされるのって、すごく嫌ですよね。

www.huffingtonpost.jp

持論を商売、売上に繋げないといけない人たち

でも、思ったんです。何かの主張で番組が企画されたはずなのに、その内容に反するというか、「別にこうじゃなくてもいいですよ~」なんて発言を入れようもんなら、番組の構成上、どっちなんだハッキリしろ?と矛盾を指摘した苦情が来るのかもしれない。

その道で商売をしている以上、自分の商売に繋げたいから「別にみんながこうならなくてもいいんですよ~」と言うと説得力がなくなる?考えているとなんだか…宗教みたいだなぁと感じる。本当はあのアドバイザーも、別にみんながそうなる必要もないし、なれなくて当然…と思っているのかもしれない。でも番組プロデューサー的に、そういう発言は控えて欲しいのかもしれない。知らんけど…ですが。

自分で決められない人たちが多い

物事の善し悪し、正解不正解…を決められたい人が多いですよね?自分の物差しより先に立つのが、世間の常識とか、偉い人が研究した結果…とか。それがたまたま自分自身の思考回路とマッチングすれば万々歳かと思いますが、マッチングしないことだってごく当たり前だと思うし、それを悪いとかダメとか正しくない、問題だ、危ない、〇〇になる恐れがある…と言う方向へと誘導していくことって、本当に良くないし…でも世の中はそんなことだらけで回っていますよね。美容健康から何から何まで。

 

以下、当日の自分のTweetも貼っておきます。

 

対話型アート鑑賞ではぐくまれるチカラ

 

対話型アート鑑賞のセッションを通して

いろんな能力が活性かされます。

 

おもに下記太字で記載した能力:

観察力、思考力、美意識、自己肯定感、コミュニケーション力、言語化力、観察力

を中心に、細分化していくとこんなにたくさんの能力が育まれ、向上させられることが期待できます✨

  • 観察力 分析力 洞察力 知覚力
  • 思考力 批判的思考力(Critical Thinking) 論理的思考力(Logical Thinking)関連づける力
  • 美意識 イメージ力 創造力 発想力
  • 自己肯定感 実行力 意思決定力
  • コミュニケーション力 共感力 協調性 交渉力 
  • 言語化力 問答力 説得力 問題解決力

おためしセッションを受けた方は、みなさまそれぞれに何かしらの「気付き」を得ていかれます。もちろん1回だけでも気付きは得られますが、上記能力をまんべんなく向上させていくには、繰り返しセッションを重ねていくことが理想です。

 

みなさん、他の方との視点の違いに気付き、驚かれることが多いのですが、同時に「言いたいことをうまく言葉で表現できない」という感覚を覚えられる方が多いようです。

 

「対話」とは相互コミュニケーションであり、伝え、伝えられ…の繰り返しです。

その中でやはり「うまく伝えること」ということは、多くの人たちにとっての課題になっていると感じます。

 

それは言い換えれば「プレゼン能力」です。

プレゼンテーション、発表です。

 

大人でも仕事の場面、客としてのお店の人との交渉場面だったり…いろんな場面で必要とされますが、特に親子参加での回では、親御さんがお子さんのプレゼン能力という点で注目されます。

 

お子さんが日頃からプレゼン能力をつけておくということは、これから生きていくに当たって役立つ場面がいっぱいです。

 

親子対話型鑑賞会では、日常的な親子間の対話では見ることのない、お子さんの新しい一面を見られて驚かれる親御さんは少なくありません。その場で、たくさん褒めてあげることで、お子さんの自己肯定感もぐんと上がりますし。学校の授業参観などとはまた違うタイプの体験になります。

 

常時、受け付けておりますので

ご興味のある方はぜひお気軽にお問い合わせください。

 

申し込みでなく、お問い合わせだけでも構いません。

希望日は入力必須ですが、まだ迷われている場合は、適当にご入力いただいて、まだご検討中の旨を備考欄に記載してくだされば結構です。